回答先: 真面目に答えようとするからです 投稿者 度欲おぢさん 日時 2000 年 04 月 03 日 06:56:28:
上記の「真面目に答えようとするからです」というふざけた題の投稿に書
きましたように、「仏教、キリスト教、イスラーム、神道」ISBN4-8046-1156-8
に、「他宗教に対しての考え方は」という記事がありましたので紹介します。
なお、投稿に際して、文を短くするために、文章の位置を入れ替えたり、中略
してありますので原文通りではありません。
本当は、この投稿をこの掲示板に初期にすべきでありました。機が熟してい
なかったので、遅くなったことをご了承ください。
ええーっ!そんなに詰まらなそうな顔をしないでください。そういうのを
「ブッキョー面」じゃなかった、ええと……、「ブッチョー面」といいます。
「神道」定着した外来宗教は神道の変形
民族それぞれの考え方があるから、それぞれの宗教を持つことを干渉する
なにもない。ただ、他の宗教から神道の存在そのものが脅かされれば、当然
戦わなければならない。しかし、中国大陸という穏やかな宗教圏の隣にあっ
て、適当な距離を保ち、適当な大きさである日本列島であるという地政学上
の理由から、その危険にさらされたことがない。
自然界は、確かに弱肉強食の世界ではあるけれど、強いかげろうも弱いか
げろうも共存繁栄するという、今西錦司先生の「棲みわけ理論」からも分か
るように、われわれは自然から学ぶことがいっぱいである。にもかかわらず
も人間が作る宗教やイデオロギーは偏見に満ちており、多くの宗教が排他独
善に陥って、宗教戦争が行われてきた。
世界各地で、不本意な折伏を強いられた人々が生き残り、表面上はその宗
教を取り入れていても、その民族特有の宗教的情操が培われているはずであ
る。
日本においては「日本教○○派」とイザヤベンダサンが喝破したものであ
る。
「イスラーム」多神教は厳しく否定
ユダヤ教徒もキリスト教徒もムスリムとおなじ、「啓典の民」ではあるが、
啓典を改ざんしたり、キリストを神格化したりしたことは間違いであること
を正すためにムハンマドが遣わされたのだとされている。
これら「啓典の民」はムスリムに継ぐ特別な法的地位を保証されている。
これに対して、多神教徒、偶像崇拝者は唯一なる神に伴侶を認める者として
厳しく否定される。それは何よりも一神教の原理に反するからである。彼ら
には積極的な存在理由はない。しかし、それはあくまでも原理上のことであ
って、それを現実に適用する場合、具体的状況によってその解釈が大きく作
用される。しかし、このような立場は今日の宗教多文化の時代においては、
そのままでは適合しなくなりつつあり、大きな再解釈が求められよう。
「キリスト教」キリストに信従しつつ他にも学ぶ
キリスト教は一神教であるから、単純に割り切ると、他宗教との間には「あ
れかこれか」の選択しかなく、真の神以外のものを拝むことは「偶像崇拝」で
あって十戒で厳禁されている。しかし、神の唯一性と絶対性を信じることは、
そう信じている自分の立場を絶対化するものではない。むしろ神の前で、自
分達の不完全性や相対性を知らされるのである。そして自分の信仰がやむに
やまれぬ帰依であるように、他者の信仰も同様な真剣なものであることを認
めるのである。そこから宗教相互の尊敬が生まれ、宗教間の対話が可能にな
り相互の学びあいが生まれてくる。
キリスト教では他宗教の教えが正しいのかどうか、人間の側で決定するこ
とはできない。歴史の終末まで分からないのである。それまでは、自分の信
じていることの全てが絶対的に正しいと主張することも、他の宗教の全てが
誤謬であると主張することも許されない。絶えず自己を吟味し、他に学ばな
ければならない。
【度欲】こいつはポパーいわくの「科学=自己修正可能理論、だった?」みたい。
「仏教」主張と批難を止める
対立抗争は互いに自己の正当性を主張し、相手の不当を批難することから
始まる。独立した第三者から見たら、お互いがお互いの主張を批難している
のだから、両者ともに誤りがあることになる。
多くの人々が個々に自己の主張のみが唯一絶対の真理であると主張して止
まなければ、唯一絶対の真理があちこちにあることになる。それらの主張は
唯一絶対ではありえない。
シャーリープトラのおじのマハーカウシュティラ(長爪)は根本教典を全
て読みつくし、その知識で対論者を蹴散らしていくのは狂暴な象のようであ
った。
そんな彼には聡明な甥がいて釈尊のもとで出家したと聞いたので、いきよ
うようと釈尊のもとに出かけて「釈尊。わたくしはすべての教説を承認しま
せん」と議論をふっかけた。
釈尊は「あなたは、『すべての教説を承認しない』というその主張を承認
するのか」と問い返した。
長爪はこう考えた。「私は敗北した。しかし、釈尊は私の負けを、これ見
よがしに人々に示すこともぜす、正しいとか誤っているとか、あげつらうこ
ともない。勝・負などということを気にも留めていないのだ」と、
ここで、私たちは、あらゆる宗教は他の宗教と議論を戦わして勝ち負けを
求めるべきではないことを知ることができる。あらゆる宗教は議論と対話を
通して人類の幸福と世界の平和を求め、実現のための精進を積み重ねるべき
である。
【度欲】いいこといいますね。こんな人に度欲はなりたい。
度欲。今日からまたチョー忙しの日々が始まりそうです。